神戸地方裁判所 昭和37年(わ)1973号 判決 1965年5月01日
被告人 池谷郡造
明四二・一・二生 会社員
主文
被告人は無罪。
理由
(本件公訴事実)
被告人は、昭和二九年二月頃より、同三六年一月一一日頃まで、大阪市北区絹笠町五〇番地所在、ブルドーザー工事株式会社に土木技師として勤務していたものであるが、同三三年一〇月頃、同会社が六甲開発株式会社より請負つた同会社所有の神戸市葺合区葺合町山郡所在の世継山(約五万坪)を神戸カントリークラブゴルフ場に造成する工事の施工に際し、右ブルドーザー工事株式会社神戸カントリークラブゴルフ場造成工事現場事務所長を命ぜられ、その頃より、同三五年四月頃まで同現場事務所長として同ゴルフ場造成工事の測量、設計、現場監督等の業務に従事していたものであるところ、同三四年一〇月頃、同ゴルフ場第三コースの造成工事をなすにあたり、世継山南側斜面を切りとりその北西側へ盛土をなし高さ約四米のコンクリート擁壁を築きその上部へ高さ約三米の土留石積擁壁を建築することを計画し、自ら設計をなし、その設計に基き、右、土留石積擁壁建築工事の施工に着手し、同三五年二月頃、これを完成するまでの間同工事の監督に従事したものであるが、世継山南側斜面を切りとり盛土をなし、その北西側へ土留石積擁壁を建築するにおいては、降雨量多量の場合は、斜面及び盛土上に降つた雨水が表流水、浸透水となつて、高い東南側より低い北西側へ流下し、石積擁壁背後の盛土部へ集中し、擁壁に水圧及び土圧を及ぼし、そのため擁壁が背後の盛土と共に崩壊する虞れがあり、右擁壁下方には、吉成利春方外数戸の人家があり、これが崩壊の場合は、これら人家の居住者の生命、身体に危害を及ぼす危険があつたので、このような地域における石積擁壁建築工事の施工者としては、擁壁背後に集まる表流水、浸透水が擁壁に及ぼす水圧、及び盛土が擁壁に及ぼす土圧を計算してこれに耐えうる厚さの堅固な石積擁壁建築の設計をなすはもとより、水圧の上昇を避けるため、擁壁背後に十分な裏込栗石を入れ、排水孔を多数設ける等して万全の排水措置を講じた設計をなし、さらに施工にあたつては、右設計どおりの工事を忠実に履行し、もつて、擁壁倒壊による危険の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに拘わらず、擁壁背後に及ぼす水圧及び土圧の計算を十分になさず、控約三五糎の積石をしたのみで、十分な厚さの胴込コンクリートを入れない不完全な設計をなし、しかも施工にあたつては、右不完全な設計に加えて、擁壁背後に裏込栗石を入れず、孔の空いていない竹筒を排水孔として使用する等、何等の排水措置を講ぜず漫然と盛土をして石積擁壁を建築した過失により同三六年六月二六日午前零時頃より、午前六時頃までの間の雨量約百五十粍の降雨のため、同日午前六時三〇分頃、右盛土上に降つた雨水が浸透水となつて擁壁背後に貯溜されて水圧が上昇したゝめ、右石積擁壁の一部が背後の土砂と共に崩壊してその下方にあつた同町山郡一番地の一、吉成利春方家屋を倒壊せしめ、よつて即時吉成孝子(当一二年)を土砂埋没に基因する全身圧迫により窒息死せしめたものである。
(本件事故に至るまでのいきさつ)
一、六甲開発株式会社(社長菅谷一郎)は、神戸市葺合区葺合町山郡所在世継山周辺の斜面を切り開いて、そこに神戸カントリークラブゴルフ場を造成することになり、昭和三三年一〇月頃、大阪市北区絹笠町五〇番地所在ブルドーザ工事株式会社(社長青木益次)に右ゴルフ場の造成工事を請負わせ、同社において右工事を担当施工することになつた。
二、被告人は当時右ブルドーザー工事株式会社に土木技師として勤務し、右ゴルフ場造成に際し、同工事の現場事務所所長を命ぜられ、その頃より同三五年四月頃まで右工事における設計及び施工の最高責任者としての地位にあつたもので、右工事認可の条件である治山治水面の完全を期する目的で設置された兵庫県及び神戸市の土木関係者等を構成員とする技術懇話会の指導、監督下に工事が進められた。
三、本件公訴事実に所謂第三コースは世継山北西側の斜面を切り取つて造成されることになつたのであるが、そこは斜面自体急なところであり、ちようどその真下附近に市ヶ原の人家があるのでそのような場所を切り取つて工事をすれば大雨が降つたりしたとき土砂崩れ等が起きて人命の危険が感じられるようなところであつた。
そのようなことから地元民の反対もあり、被告人としてはむしろ第三コースは造成しない方がよいのではないかと会社に進言したくらいであるが、結局第三コースのコース面を短縮すること、同コースを約二〇メートル下げることなど市ヶ原の住民の安全のために設計、施工に変更を加えるなどの経過をたどつた末、さらに工事も雨期を避けて行いその他万全の策をとるということで地元民を納得させたうえ同三四年一〇月頃から造成工事が開始され翌三五年二月頃完成するに至つた。
結局、本件ゴルフ場全部の工事を終了した同年六月頃に本第三コースを含め六甲開発株式会社に引渡されたのであるが、引渡す際、被告人は六甲開発株式会社に対して特に第三コース面の排水に意を用いてもらいたいということ、すなわちコース平場の山際に世継山の切土面にそつて巾約四〇糎深さ約四〇糎の素堀りの排水溝が設けられており、それがコースのテイ側から堰堤側に向かつて勾配を附されて堰堤側に設けられていた横断水路に続いており、世継山から平場上に流下するであろう水ならびにその他平場上に集まるであろう水をそこから排水するべく設けられていたのであるが、この溝が埋まらないように管理してもらいたい旨要請していた。
四、その後世継山附近に同三五年八月一〇日から一五日にかけて、大体継続して総計二〇〇ミリ程度の降雨があり、同月二九日から九月一日にかけて同じく継続して総計二四〇ミリ程度の降雨が記録されたけれども、そのいずれのときにも右第三コースに異常は認められなかつた。
五、ブルドーザー工事株式会社から引渡しを受けて後三六年五月頃、六甲開発株式会社はブルドーザー工事株式会社と関係なしに第三コース南側の世継山斜面をさらに切り取つてその土を第三コース面に盛土して嵩上げする工事を始めた。
右嵩上げ工事は、第三コース山側の切取面が緑化しにくくそこから土砂が流れ落ちて来てコース面が荒れるのでそれを防止するためと、その切取面がコース面に突出しているような地形になつていることからゴルフのプレイヤーから見透しが悪くプレーの邪魔になると苦情が出ていたのでその障害を除去せんとして、六甲開発株式会社独自の判断で行われた。この工事を行うについては監督官庁の認可を受けるとか専門の技術者を関与させるといつたことはなく、当初は人夫の手で斜面を切り崩すという作業をしていたが、後には発破をかけるとかブルドーザーを入れての工事が実施されていた。
六、六甲開発株式会社による右第三コースの嵩上げ工事がまだ完全に終らず、切り取つた土も完全にはならされていないような状態で前記技術懇話会より切取面の緑化等について勧告を受けているうちに六月になり、本件の降雨に遭遇した。
本件降雨は三六年六月二四日午後二時頃より降り続いたのであるが、右降雨継続中であつた同月二六日午前六時三〇分頃、本件の石積擁壁すなわち第三コースの石積擁壁の一部が崩壊して背後の盛土とともに落下し、その下方にあつた同町山郡一番地の一、吉成利春方家屋の一部を埋めてしまい、ちようどそこに居合わせた同人の四女吉成孝子(当一二年)を土砂に埋没させ、即時同所において全身圧迫により同女を窒息死させるに至つた。
(以上のいきさつは関口勇、塚本洋之、泉光秋、菅谷一郎、河合英一、吉成利春の検察官に対する各供述調書、関口勇(三六年八月一六日付)、三好勝彦の司法警察員に対する各供述調書、被告人の検察官に対する各供述調書、ならびに司法警察員に対する供述調書、第四回公判調書中の証人塚本洋之、福田正の各供述部分、第七回公判調書中の証人山本一美、同藤原正善の各供述部分、証人関口勇に対する三八年一一月五日付当裁判所の尋問調書、木村昭雄作成の死体検案書、六甲砂防工事事務所作成の時間雨量表(再度山観測所)を総合してこれを認める)。
(当事者の主張)
検察官は、前認定の第三コース石積擁壁の一部崩壊は、被告人において同部分が地形上他部分より盛土斜面等に降つた雨水の収斂しやすい個所であるにも拘らず、この点を考慮した土圧計算を行わず従つて脆弱な石積擁壁の設計をしたうえ、石積背後に十分裏込栗石を投入せず、かつ、節を抜かない竹筒を排水孔として設置するなど手抜き工事をしたため、脆弱で排水作用の不十分な石積擁壁となり、その結果本件石積擁壁裏側に雨水の浸透水が収斂し水圧を生じて崩壊したものである旨主張し、弁護人は右設計及び施工上に瑕疵のあつたことを否定し、崩壊当時六甲開発株式会社においてコース面に盛土嵩上げ工事を施工中であり、コース面の排水が不良となつて水溜りを生じていたため、この雨水が斜面盛土内に浸透し本件石積擁壁に土圧及び水圧を及ぼして崩壊したものである旨主張する。
(崩壊原因についての鑑定結果)
田中茂作成の鑑定書と題する書面、第三回公判調書中の同人の証言部分及び当裁判所のなした同人に対する尋問調書二通を綜合すると、同人は本件石積擁壁の崩壊原因について要旨次のような見解(以下田中鑑定と称する)を述べている。
即ち、本件石積擁壁背後には下部コンクリート擁壁の上辺附近よりコース面中央部附近まで地山面(盛土前の世継山斜面)が残されていたものであるところ、その地山面上の盛土斜面に降つた雨水が右斜面内に浸透し、右盛土部と地山部の境界面で貯溜されたような形となりこの水は高所に浅く低くなるにつれ石積背後に到つて最も深くなる水面型を示して石積背後に集中しこれに水圧を及ぼして崩壊したもので、右現象は特に本件石積の崩壊部分の背後において盛土斜面が他の個所に比し地形上多量の雨水を収斂するようになつていたと判定されるのみならず、石積背後の栗石が皆無であり、また、節の抜かれていない竹筒を水抜孔として使用し、さらに石積背後に空洞が多いなど工事の施工上に手落ちのあつたため、前記浸透水を石積外に排水することができず、そのまま石積背後に貯溜され地下水となつてその水面を上昇させ水圧を生ずるに至つたもので、本件石積工事の施工上の瑕疵に基因するものであると述べ、この場合崩壊当時盛土されていたコース面からの一部の浸透(同鑑定人は世継山切土斜面から流下した雨水は土砂も落下させ山際排水路を埋めたがコース面に降つた雨水と共にコース面自体の縦断勾配により相当の巾で横断排水路に排水されたとする)は降雨状況と現場の土質を考慮すれば、時間的に石積背後に到達し得ないものであり、また、嵩上げ工事による盛土傾斜面の増加による同斜面降雨量の増加も僅かであるから本件崩壊に与えた影響は少く、一、二時間崩壊時刻を早めた程度に過ぎないものではあるが、崩壊が一、二時間も遅れていたら本件少女の死亡事故は生じなかつたであろうと附加されている。
鑑定人橋本規明作成の鑑定書及び同人の当公判廷における証言を綜合すると、同人の本件崩壊原因についての見解(以下橋本鑑定と称する)は要旨次のとおりである
即ち、本件石積擁壁の背後には下部コンクリート擁壁の下辺附近よりコース面中央部附近まで地山面が残されていたものであるところ、崩壊した石積擁壁の直上コース面附近の排水が不良となつていたため、多量の雨水を貯溜するに至りこれがコース平場面から多量に下部に浸透しさらに前記地山部と盛土部の境界線に沿つて急速に浸透し、その結果盛土内に多量の雨水を含ませて粘着性を失わせ土圧を生ずるに至つたか、或は右浸透水によつて石積背後に水圧を生じたため崩壊したものであつて、本来本件コース自体がコース面に縦断的に勾配を設け、かつ、横断面的にも盛土法肩側を高く山側切取面側を低くしてコース面の排水を考慮した設計をなし、かつ、それに基いて造成されていたものであつて、本件石積擁壁も右コース平場面の排水及び浸透水の軽減を前提として設計されたものであるから盛土の異常飽水現象を考慮してなくてもその構造自体をもつて脆弱であると断定し得ず、また、石積擁壁の工事結果も未崩壊部分の一部を見分して全体的に堅牢なものであると推測され、いずれも本件崩壊の原因とは考えられないと謂うのである。
鑑定人真門真二作成の鑑定書及び同人の当公判廷における証言によれば、同人の本件崩壊原因についての見解(以下真門鑑定という)の要旨はその崩壊原因について前記橋本鑑定とほぼ同趣旨であり、その根拠として、崩壊した石積擁壁と同一条件下の他石積擁壁が崩壊していないところから崩壊部直上コース平場面の雨水の排水状態の異同が本件石積擁壁の崩壊の基因をなすものと考えられ、特に右石積擁壁についてその設計、施工に基因するものではないと謂う。
(当裁判所の判断)
以上の各鑑定結果を検討するためには、右鑑定結果において指摘されている事実関係について、さらにその実態を考察する必要がある。
(一)、本件石積擁壁の設計について
本件全証拠に徴するも右擁壁の設計図なるものは発見できないが、第八回公判調書中の被告人の供述によつて本件石積擁壁の竣工図であると認められる前記田中茂作成の鑑定書と題する書面添付の図9と、被告人自ら前記公判調書において設計図どおりの構造で施工した旨供述している事実から、同図の記載が設計図とほぼ一致するものと認められるところ、右石積擁壁は垂直高約三米にして、横断面において控三五糎を有する三角形の石を積み上げ、その裏側に生ずる右控までの間隙にはコンクリートを充填し、さらにその背後に三五糎の巾をもつた栗石の層を設けるようになつていたものであることが認められ、右擁壁の設計につき、第四回公判調書中の証人塚本洋之の証言部分及び被告人の検察官に対する五月二日付供述調書によれば、右背後の土圧計算についてはその飽水状態における土圧までを計算の基準にしていなかつたものであることが認められる。
しかして前記田中鑑定、当裁判所のなした証人伊藤雅夫、同米倉亮三に対する各尋問調書及び証人真門真二の当公判廷における供述に徴すれば、昔から我国で普及されている構造物でありながら石積擁壁の設計理論は現在のところ確立されてなく理論と実際は必ずしも一致せず未だ定説のない段階にあることが認められるので右設計にかかる本件石積擁壁が現地の境界条件に適合した強度を持つか否かを判断することは容易ではないが、少くとも、設計者が設計当時考慮した排水上の諸条件を無視してこれを論ずることは適切でなく、従つて造成されたコース全体の排水方法を検討したうえ後記において判断することとする。
(二)、本件石積擁壁及びコース造成工事の状況について。
吉成利春及び塚本洋之の検察官に対する各供述調書、第三回公判調書中の証人中田頼明の供述部分、秋山昇作成の実況見分調書添付写真及び昭和三八年九月一四日付当裁判所のなした検証調書によれば、本件コース造成個所は雑木、雑草の繁茂した世継山斜面の中腹であつて、その土質は多量の自然石の混入した性状を有していたものと認められるところ、さらに前記中田頼明の供述によれば、本件石積擁壁の工事は下請者である右中田の手により多数の人夫を使つて石積個所全域にわたり同時に下部より一段宛積み上げられたもので、基本設計図に従い裏込コンクリートを充填し、栗石も附近に多数の適当な自然石を認めたのでこれを背後に二〇ないし四〇糎の巾で入れ、さらに排水孔として節を抜いた竹筒を石積面三平方米に一本の割合で設置した旨証言しているのであるが、既に崩壊石積擁壁部分についてはその痕跡をとどめていないため直接確認する途がない。
しかし、同証言にいうが如く同時に一段宛積み上げる方式で工事の行われたであろうことは経験則上容易に肯定できるので崩壊部の周辺石積擁壁の状況を検討することによつて崩壊部分の状況を推測してみることは可能である。
先ず、(1)秋山昇作成の実況見分調書と同人に対してなした当裁判所の尋問調書によれば、同人は崩壊後十三日を経た昭和三六年七月九日に崩壊部に立ち入りその両崩壊面を見分して栗石はいずれも二、三個を確認したに過ぎず、かつ一方には空洞の存在を認めたとしてその状況を撮影した写真を添付し、(2)証人西海福次に対する当裁判所の尋問調書、第六回及び第九回公判調書中の証人大川種朗の各供述部分によれば、同人等は同年八月一〇日頃崩壊場所より北東側に一個所、南西側に二個所それぞれ一部を堀り返して見分しその状況を写真(検一〇号証)撮影しているが栗石は殆ど見分できなかつたと供述し、(3)証人石原有に対する尋問調書によれば、同人は右西海等と同一機会に同一場所を見分し深さ一米の範囲内では栗石の存在を認めず、かえつて空洞二個を認めたと述べている。次に(4)米倉吉光作成の実況見分調書と同人に対する当裁判所の尋問調書によれば、同人は翌三七年三月二三日頃未崩壊部分において節の残されたままの竹筒を一〇本以上見分したと述べ、(5)当裁判所のなした同三八年九月一四日付検証調書によれば、前記西海等の堀り返した以外の二ヶ所を約一米堀り返した結果、いずれも二ないし二〇糎大の栗石と思われる石を前者において約一五〇個、後者において約八〇個確認し、排水孔については未崩壊部分において見分した四七本の竹筒のうち、九本について節の抜かれていない竹筒を確認し、さらに(6)当裁判所のなした同三九年三月二八日付検証調書によれば、前記各個所以外の個所の石積を上部より約一米七〇糎の範囲で破壊しその背後を見分した結果、石積擁壁の厚さは胴込めコンクリートを含め最上部において三五糎、下部に行くに従いその厚さを増し六段目で六五糎にも及びまた栗石と思われる石は土砂と混合して層状形成は確認できないものの相当数確認できたが同時に空洞の存在も確認された旨記載されている、もつとも証人関口勇に対する当裁判所のなした同三九年三月二八日付尋問調書によれば、崩壊後石積擁壁全部にわたつて加圧コンクリートを注入した旨述べているところから右検証調書中に記載された六段目以下の黒色石状の固型物は右注入コンクリートであると判断される。
以上の各見分結果より本件石積擁壁の工事施工状況を検討してみるに、(1)は崩壊後約一三日も経過し、しかも見分個所に接して多量の土砂の落下した地点であるため崩壊前の栗石の状況を知るうえに必ずしも適切ではなく、(2)ないし(6)を比較すれば調査規模において優る(6)の検証結果がより適切であると考えられ、従つて石積の裏側には上部から下部に至るにつれて厚さを増す相当量のコンクリートが充填され、かつ相当量の栗石が投入されていたと認めるのが相当であり、崩壊石積擁壁の背後も同様の状態にあつたものと推測され石積裏側のコンクリート(胴込めコンクリート)や栗石に関する限り工事施工上特に問題視すべき程の手抜きがあつたものとは断定できない。
しかし、水抜孔の竹筒については、(4)及び(5)の見分結果により節の抜かれていないものが約五分一存在したことが明らかでありこの点において工事施工上の手落ちがあり、石積擁壁の排水に多少悪影響のあつたことを肯定できる。
また、空洞の存在についても前記(3)及び(6)の見分結果より確認できるので崩壊部分にも同様のものがあつたと推定されこれが田中鑑定に説くが如く土固めの不十分という工事施工上の手抜きによるものか、或は栗石内の空隙部分へ土砂の混入した結果等自然的他条件によつて形成されたものかについては断定し得るだけの証拠がないが、この石積背後の空洞は浸透水の貯溜を速やめ、もしその部分に水抜孔の竹筒がなくあつても不幸にして節の抜かれてないものだとしたらこれも亦水圧を高める上に悪影響があつたと思われる。
(三)、造成当時のコース状況と現在のコース状況。
前認定のとおり、第三コースの造成工事は、昭和三四年一〇月頃から開始されたものであるが、第八回公判調書中及び当公判廷における被告人の供述により、コース竣工図と認められる弁護人提出の神戸カントリー倶楽部ゴルフコース平面図及び横断面図(No.3の1/4から4/4までの四枚)並に縦断図(NO3S1:500と表示あるもの)によれば、同コースは世継山北側斜面を北東から南西に向う方向に削りとつてくの字型に造成された全長約二八〇米のコースであつて、うち西南側約一四〇米の部分についてはその下部にコンクリート及び石積による擁壁が構築され、その背後の地山面に盛土斜面を設けてコース巾を拡大すると共に縦断的に西南に向い一〇〇米につき五米ないし一〇米上昇する勾配をつけ、最も低い同コース中央部に横断水路を設け、また横断的には山側切土面を低く盛土斜面の法肩側を高くして切土面側に側溝を設け右側溝を前記横断水路に接続させた形状を有するもので、右コース面上の雨水はすべて側溝を経て横断水路に集中し同コース北側に設けられた砂防堰堤(通称市ヶ原堰堤)内に流下するよう配慮されたものと認められる。ところで前記秋山昇作成の実況見分調書によれば、本件崩壊部分は右市ヶ原堰堤と前記コンクリート擁壁の接点より南西約三六・二米の地点を起点としてさらに西南側約九・一米に及ぶ部分であることが認められ、前記平面図及び横縦断面図上にその該当部分を求めるならば、いずれも測点6附近であることが確認され、またコース造成前の平面図(証一号)上においてはq,FL303線上附近より南西側がこれに該当するものと考えられる。
そこで右崩壊部分直上のコース面の標高、盛土斜面の長さ及びコース巾を右各竣工図の縮尺に従つて算出してみると、標高約三〇一・五米、盛土斜面の長さ約一六・六米、コース巾約二三米であることが認められ、また右方法により同地点より前記横断水路までの距離は約二六米、また、同水路附近の標高、盛土斜面の長さ、コース巾は順次約三〇〇・五九米、一六・八米、二八・四米の数値を示し、従つて崩壊部直上附近と横断水路附近の標高差は約一米弱であることを肯定できる。
しかして本コース竣工当時の写真である弁検一、二号証の写真によれば、同コース面は平坦にならされて植芝され、世継山切土面及び盛土斜面は殆ど起伏の認められない程に整地されていることが認められる。
次に現況コースの形状を表示した神戸カントリークラブ市ヶ原崩壊個所平面図及び横縦断面(真門鑑定人の要請で作成された同人の署名あるもの)において、本件崩壊個所の該当部分を求めるならば、前記の方法により同図面上測点7附近がそれに該当すると認められるところ、同図の縮尺に従つて当該部分の盛土斜面の長さ、コース巾を算出すると約二二米と一九・一米の数値を示しまた、横断水路附近(同図測点9附近)の盛土斜面の長さは実に二六・六米を示している。ところで右現況横縦断面図測点7及び9上の盛土斜面個所に前認定の完成当時の盛土斜面の長さを縮尺に従つて想定し、その上端より水平線を設けて現況コース面との差を検するならば、崩壊部分の直上附近において約二・六米、横断水路附近において約四・二米であることが認められるので、ほぼ同程度の盛土嵩上げが竣工後に施行されたものと推測され、前記秋山昇作成の実況見分調書添付写真8、9によつてこれが裏付けられる。
さらに前記コース竣工平面図及び造成前の平面図(証一号)によつて本件崩壊部附近の地山部及び盛土斜面部の等高線の形状を検討してみると、いずれも、崩壊部分において高い方に向い若干凹状を示していることが確認され、前記田中茂作成の鑑定書添付図1、鑑定人橋本規明作成の鑑定書附図1及び証人真門真二の証言を綜合すれば地山部と盛土部の境界面はコース面中央部附近に縦断的に接し、下方はコンクリート擁壁背後に到つているものであること、また、前記現況横断面図上に右境界面を想定してその長さを推測してみると少くとも三〇米以上あることを肯定できる。
(四) 崩壊当時の降雨及びそれ以前の降雨について
建設省近畿地方建設局六甲砂防工事事務所々長作成の捜査関係事項照会回答についてと題する書面によれば、本件現場に近い再度山観測所において計測した本件崩壊当時の降雨状況は崩壊二日前の二四日午後三時頃から降り始め、翌二五日午前一一時頃一時止み、再び同日午後三時頃から降り始めたもので崩壊時である二六日午前六時三〇分ごろまでに約二二〇ミリの総雨量のあつたことが認められ、従つて本件現場附近においてもほぼ同程度の降雨状況であつたことを肯認できる。さらに崩壊の前年であり竣工の年である昭和三五年八月当時の降雨状況について右資料によれば同月一〇日から一四日まで断続的であるが総雨量において約二〇二ミリ、同月二九日から三〇日までには同じく断続的であるが、総雨量において二四六ミリのそれぞれ降雨のあつたことが認められ、従つて本件現場附近にも同程度の降雨があつたものと推定される。
(五) 崩壊直前のコース面の状況について
現況コース面は竣工時に比較して前認定の程度に盛土嵩上げされているのであるが、本件崩壊前の写真と認められる弁検三号証と前記竣工時の写真である同一、二号証を比較すると、竣工時平坦にならされていたコース面横断水路南西側に相当量の盛土が置かれ、世継山切土面が凹状となり、さらに、その下部側溝附近に多量の土砂の堆積のあることに差異が認められ、また、崩壊直後の写真と認められる弁検四号証によれば、コース面盛土斜面側に縦断的にカマボコ型の盛土が断続的に置かれ、世継山切土面に相当の流水痕の残されていることが崩壊前と異つていると認められるが、コース面の状況については詳かに確認することができない。
しかし、以上の変化を、塚本洋之の司法巡査及び検察官に対する各供述書と第四回公判調書中の同人の証言部分、関口勇の検察官に対する供述調書と同人に対して当裁判所のなした三八年一一月五日付尋問調書、第四回公判調書中の証人福田正の証言部分及び証人河本勇の当公判廷における証言の綜合と前認定の現況の盛土状況によつて検討してみると、本コースに対する盛土工事は昭和三六年五月頃から開始されたものであるところ、その方法は従来から落下土砂の多かつた世継山切土斜面を切り取り、その土砂をコース面の低い方に先ず引き寄せたうえ同附近を厚く、それより南西側に行くに従つて薄く盛土して行き、結局低い方では二米、高い方では一米程度盛土したうえ、未整地土砂は盛土斜面の法肩から約一米の間隔をおいて横断水路の近くまで約四〇米にわたりコース上を縦断し高さ約二米五〇底部の巾が約四米に及ぶかまぼこ型状を呈した相当量の土盛の状態で断続的に置かれていたものである事実を肯認することによつて前記変化を理解できるのであつて、そうすれば、未だ残土の整理もできていないためコース面は平坦化されず、排水のための前記約一米の勾配が減殺されていたうえ側溝も埋没していて、雨水の排水作用に著く障害となつていたであろうことは容易に推認できるのである。前記塚本証人が、崩壊直後にはコース面の側溝が埋没し、コース中央部附近には水が溜つていたと証言し、また、同河本証人が断定的ではないが世継山切土面からの落下土砂がそのまま堆積したと思う旨証言し、さらにコース面は足首まで沈む程度にぬかるんでいた旨証言していることはこれを裏付けるに十分である。
もつとも、前記秋山昇作成の実況見分調書添付写真8、9、30、31、32にコース面の状況が撮影されているが、前記関口勇に対する当裁判所のなした尋問調書によれば、崩壊後直ちに前認定の残土を引きならした旨供述しているので、前記写真の撮影年月日より推して崩壊時におけるコース面の状況を確認するうえに適切な資料ではない。
さらに前記弁検四号証と右実況見分調書添付の写真31、32を対照すれば、世継山切土面において、崩壊前の写真である前記弁検三号証では認められなかつた顕著の流水痕が認められるので同斜面より相当多量の雨水の流下があつたものと考えられ、同コース面上には崩壊時相当多量の水が貯溜されるに至つたものと認定せざるを得ない。
(六) 崩壊原因の検討
以上の事実関係から、前記各鑑定結果を検討し、本件崩壊原因を探ぐつてみることにする。
右各鑑定結果においては、その直接原因が水圧によるのか、或は土圧によるのかについては相違しているのであるが、いずれも石積擁壁の後方に浸透して来た雨水に基因するものであることについては一致していると認められるところ、本件崩壊部附近における前記二二〇ミリに及ぶ降雨の流水状況を検討すると、前認定の事実関係から本件コース面にはコース表面への降雨のほか、世継山切土面を伝つて多量の雨水が流下したうえ、コース面に起伏があり、かつ、排水が著しく不良であつたため、コース面に多量に貯溜してコース平場の地中に浸透し、盛土斜面への降雨は同斜面が急傾斜であるため表流水となつて斜面上を流下するほか、斜面盛土内に一部浸透して行くものと推測することは容易である。
しかして前者と後者の浸透水量を比較するならば、平面積において優り、勾配の点で緩く、さらに表面の起伏の点で著しい前者の方が多量であることは経験則上明らかである。
ところで、水が地中に浸透する状況は当初垂直下降線を示して浸透するも、浸透係数の異つた即ち本件にあつては盛土内を垂直に浸透して、それよりも浸透係数の低い地山部に到達すると、次の浸透現象は盛土部と地山部の境界面上を境界面に沿つて浸透を開始するものであることは、前記各鑑定結果の一致して説くとこであるが、既に認定したとおり、本件現場附近における盛土部と地山部の境界面はコース平場の中央部附近において縦断的に接し下方においてはコンクリート擁壁背後に至つているのであるから前記本件現場における降雨は、コース面より浸透する雨水中、地山部と盛土部の境界面からは直ちに右境界面に沿つてコンクリート擁壁方向に向つて斜行線を示しながら浸透し、それより盛土斜面側のコース面平場より浸透する雨水及び盛土斜面(法面)より浸透する雨水は当初垂直線を示して浸透し、地山部と盛土部の境界面上に到つてからは同境界面に沿つてコンクリート擁壁に向い斜行線を示しながら浸透して行くものと推定できる。
この場合、前記田中鑑定及び橋本鑑定のいずれもが、右浸透の速度は、本件現場における土質が所謂花崗岩の風化した真砂と称するもので浸透係数の大きいものであるが、実験上は二四時間で四、五米に過ぎないと述べているのであるが、右実験上の数値をもつて直ちに本件における前記雨水の浸透速度を律することには検討の余地がある。何故なら、前認定のとおり、本件盛土は世継山斜面を削り取つた土砂で必ずしも均一質の真砂に限らず、多量の自然石の混入されたものであるうえ、盛土前の山相は雑木雑草の繁茂していた状態にあるのであるから、浸透度そのものも一定でなく、また地肌の形状、雑木雑草の残滓等により所謂水道を形成することもあり得ることは経験則上推測され得るのであつて、この点橋本鑑定が浸透速度は諸条件により浸透係数等にかかわりなく極めて短時間で流下することがあり得ると述べていることに注目する必要がある。
従つて本件においては盛土斜面よりの浸透水にとどまらず、これより量的に多いと推測されるコース面平場よりの浸透水が、盛土部と地山部の境界面を急速に流下したうえ、田中鑑定及び橋本鑑定に謂うが如くコンクリート擁壁背後に到達しその自由水面を上昇させて水圧を生じ、或は橋本鑑定及び真門鑑定に謂うが如く斜面盛土を飽水状態にして息角を失わせ、或は異常土圧となつたうえ、本件石積擁壁を崩壊に招いたものと推認されるのである。
この場合、特に本件石積擁壁のみが崩壊したのは、前認定のとおり右石積擁壁附近の地山部及び盛土部の等高線がいずれも高い方に向つて凹状を形成していたため他よりも多量の浸透水を収斂した結果と理解される。
本件雨水の浸透が、実験上の浸透理論で律することのできない地山部と盛土部の境界面における急速の浸透を示すものとすれば、田中鑑定に謂うが如き降雨状況の差異を検討するまでもなく降雨量によつて本件石積擁壁の耐性を論ずることは一つの根拠となり得るのであつて、橋本鑑定に謂うが如く、前認定の崩壊前年である昭和三五年八月当時において、本件崩壊時における降雨に優る雨量の降雨に見舞われながら崩壊しなかつた本件石積擁壁が、本件崩壊時における降雨によつて崩壊するに至つたという事実は前記推認を裏付けるものと言える。
崩壊当時の第三コース平場の状況が未だ明らかにされず、嵩上工事の完成の日時については関口勇の嵩上工事は昭和三六年三月一日から四月末までに終つた旨の捜査官に対する供述調書しかなかつた段階で鑑定を委嘱された田中茂教授は世継山切取斜面からコース平場に流下した雨水はこの平場に降つた雨水とともに山際の排水路は埋つてしまつていても、平場につけてあつた縦断勾配に沿つて相当の巾で横断水路に流入して市ヶ原堰堤に排水され、崩壊個所の真上の平場に直接降つた雨水の一部が地山部及び盛土部の表面から土中に浸透すると判断されているのであるが、この前提の下になされた鑑定結果を、平場の排水が嵩上工事中のため前段認定の如く著しく不良であつたことが公判の審理の進行につれて判明した後においても全面的に援用して、嵩上工事が本件崩壊に及ぼした影響は微々たるもので、被告人の石積工事の設計の杜撰特にその工事施工上の手落ちが原因であるとする意見には、たやすく賛同できない。
以上説明したとおり、被告人は、第三コース平場山際の排水溝や勾配によつて世継山切土面や平場に降る雨水を平場の横断水路に排水することを主眼とし、右コース平場より遥かに急勾配の法長約一六・六米の盛土斜面に降る雨水の一部しか浸透しないように排水上の諸条件を考慮して本件石積擁壁を設計施工し、これを六甲開発株式会社に引渡したのである。ところがその後において土木工事の専門業者でもない右会社が直営工事で第三コース面の嵩上げを行うこととなり、被告人が本件石積擁壁の設計施工に当つて最も意を用いた右排水上の諸条件が一時破壊され、その用をなさなくなつていた最悪時に本件降雨に遭遇した。これがため、盛土斜面からの浸透水のほかに本来ならばコース平場の横断水路によつて排水され、石積擁壁に殆ど影響を及ぼさない世継山切土面やコース表面上に降下した多量の雨水が、本件石積擁壁の後方に向つて浸透してくることとなり、その崩壊を招来せしめたものと判断する。
従つて、前記排水上の諸条件が後日変更され用をなさなくなる場合をも想定し、飽水状態における土圧や水圧を計算に入れてこれにも充分耐え得る程度の強度を持たせられていなかつたと言う意味での脆弱性が本件石積擁壁にあつたこと、或はその水抜孔の竹筒の一部に節の抜かれていないものがあつたり、又は背後に空洞もあつたのでないかとの疑がもたれる等工事施工上にも多少の瑕疵があつたことはこれを認め得るけれども、コース面の嵩上工事が、六甲開発株式会社によつて敢行されていなかつたならば、被告人の設計施工した本件の石積擁壁は、右施工上の多少の瑕疵に拘わらず優に本件の豪雨にも耐え崩壊するに至らなかつたであろうと謂う合理的疑を抱かざるを得ないのである。しかも、この嵩上工事は、本件石積擁壁の設計施工当時には何人も全く予想し得なかつたものである以上仮りに右工事施工上の多少の瑕疵が崩壊に何等かの影響を及ぼしたとしても被告人に過失の責任を問うことはできない。
よつて、結局犯罪の証明ないものとして刑事訴訟法第三三六条後段に則り主文のとおり判決する。
(裁判官 江上芳雄 山田敬二郎 河上元康)